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枝折

文芸創作の批判(2016)

文学

CREATED: 2026 / 05 / 17 Sun

UPDATED: 2026 / 05 / 17 Sun

文芸創作の批判(2016)

現実性批判

世の中の文学が現実性を重視するようになったのはいつごろからだっただろうか。おそらくそれは言葉による創作が誕生したその日から、やかましく語り継がれてきたことなのだろう。なぜなら、創造する人間の生活から完全に切り離された世界を人間が描くことなど不可能なのだから。空想的主題を扱った物語でさえ、現実性からの乖離にも限界があるのだ。

文学に関わらずシュールレアリストたちは様々な芸術に於いてそのような限界に挑戦し、当時の価値観に対する反発する思春期の少年のような様相を呈していたが、あまりに現実離れをし過ぎても、特別素晴らしい芸術活動に発展するわけではないのではなかろうか。私の個人的感想として、超現実主義によって得られた利点は芸術というものが芸術的に良いとか悪いとかではなくて、直感的に好きか、それともまったく関心を抱かないかのどちらかに評価されるものであるという余地を、芸術の受容側に与えることが出来た点だと思われる。しかしながらこの時、技術というものが全く無視されてしまうわけではない。それは作品の前提として存在しえるし、この点に関してはやはり優劣を拭うことは出来ないだろう。

要するに、私が好きな芸術とどうでもいい芸術、ないしはあまり多くはなかろうが、嫌いな芸術、という三つの基準こそ、最も純粋な芸術の評価なのである。シュールレアリスムはこのような問題を人々の目の前にあからさまに提示し、その功績は創作における衒学的精神を叩き割ったことにあるのではないだろうか。そして、私が指摘する芸術性というものも、芸術を良し悪しで評価するような的外れな批評であると言えはしないだろうか。

ここでは現実性が芸術として扱われるべきか、技術として扱われるべきかを端的に論じてみたいと思う。

現実味は創作に必要か

私は小説を書く身として、創作とは如何なるものか、という明快な疑問の難解な結論から離れて仕事に励むわけにはいかない境遇にいる。これに対して紀元以前の太古の時代から多くの考察が重ねられてきたこと、想像に難くないだろう。そのどれかを啄んで最も正しい答えを導き出すような真似はしないまでも、一つの指針として参考にすることはできる。しかるに、私はアリストテレスの『詩学』より引用する。

詩人(作者)の仕事は、すでに起こったことを語ることではなく、起こりうることを、すなわち、ありそうな仕方で、あるいは必然的な仕方で起こる可能性のあることを、語ることである。(注釈1)

アリストテレスは『詩学』第九章に於いて創作を歴史と対比して、歴史が個別的な事柄を語るのに対し、創作は普遍的な事柄について語るのであると説き、その普遍性を「ありそうなこと」、「必然的なこと」と定義している。

私はこの説を否定しない。しかしながら肯定することも出来ずにいる。けだし、彼の言う創作とは歴史に於ける創作のことではなかろうか。

物語の創作が必ずしも「ありそうなこと」である必要はないということは、現代に溢れる様々な種類の文学作品――私には変な自尊心がないから言葉で書かれた芸術(注釈2)は全て文学であると考えているのだが――を簡単に斜め読みしただけでも大体見当がつくだろう。アリストテレスの時代ではこの認識が一般的であったのかもしれないが、それが現代の創作を説明するのはあまりにも無理があると思われる。恐らく、この時代間の差異は創作と歴史の距離の差異を意味しているのだろう。

つまり、アリストテレスの創作とは歴史と密接な関係性があるのにもかかわらず、現代の創作には実際の歴史を扱った作品に加えて多岐に亘る部門が開拓され、比較的に歴史との関係性が希薄になっているのではなかろうか(ただし、いかなる創作の根底にも歴史という概念が存在することは確かで、このことに関しては次節で述べる)。古代の創作の多くが歴史的題材を扱っていることからも、根本的に「ありそうなこと」を扱っているのであり、同時代人たちがそれを強調するのにも無理はない。実際にあったという歴史を扱うのに、それがありそうにないことになってしまうのは些か荘厳さに欠けるところがあろう。現代の無秩序で雑多な文化の中では、あるいはそういったありそうにないことを好む人が多くいることだろうが、真面目な歴史を扱った歴史小説には、現代であろうが厳粛さを保つために史実を忠実に再現しているのであって、これに関してはアリストテレスの言う「ありそうなこと」を語り続けているのである。

要するに、この紀元前の哲学者が言う創作とは、歴史を念頭に置いた創作に限られているのであり、現代に於けるような多様性に溢れたジャンルが横並びする創作社会においては、包括的に文芸創作を説明するには力不足なのではなかろうか、と私は思うのである。

しかしながら、歴史というものが創作に於いて蔑ろにされてしまうこともありえないのであって、確かに一定のリアリティは存在するのである。ただし、私が述べるそのリアリティとは、繊細な描写や史実に基づいた描写ではないということもあらかじめ説明しておく。これは技術だが、根本的に優劣のない技術であって、芸術批評の対象としては存在しえないだろう。故に私は、その要素が、現実性が芸術として扱われず、技術として、しかしながら優劣のない全く恣意的な要素であることを説明するだろうと信じている。

歴史的演繹法

私が前節でアリストテレスを引用したのは、創作に於ける一定の現実性が歴史と関係を持っている要素だったからである。けれども歴史を忠実に再現することが正しいというわけではないし、だからといってそれが間違いであるとも言わない。ここではまず、創作と歴史の関係性について一度掘り下げてみたい。

創作の定義は一口には語れないだろうが、それはニュートラルに、想像を具現化するものだと考えられるだろう。その想像の土台となるものは、現実世界から抽出された事象で構成されるのであり、人間がその制約から逃れることが出来ないのは冒頭の節に述べたとおりである。創作はその上に、真と嘘を均衡に従いながら撹拌醸成していくのに対して、歴史はそういった土台――これを史実というが――の上に、蓋然性に従いながら嘘を排斥してゆき、限りなく真に近い、ありそうな史実間の一貫性を構築するのである。したがって、歴史が完全に再現されるということは絶対にありえないのであって、創作が歴史性を内包しているのと同様に、歴史のなかにもある種の創作性が宿っているのである。

しかし、歴史とは空想ではありえない。もしそうなら、そんなものにはまったく歴史的価値は見いだせないだろう。だから、歴史に於いて創作は、完全に排斥することは出来ないまでも、不可欠な要素ではないのである。けれども、創作には歴史的要素は絶対必須な条件ではなかろうか。

先述した創作に於ける一定の現実性とはここへ収斂するのである。すなわち、歴史的演繹法である。歴史的事象から個別の物語を紡ぎ出す、この過程こそ一定の現実性を生み出す要素なのだ。ただ、その歴史的事象というものは、ここでは史実とは異なるものである。それは創作家によって生み出された事象なのである。実際の歴史に頼るのではなく、自ら歴史を生み出し、仮想史実に基づいて演繹的に細部の物語を構築し、改めてその全体性の均衡を整えることによって初めて、創作は創作になるのであり、創作に必要なリアリティはたったこれだけのことなのである。

さらにその歴史的演繹法をより詳しく解説するために、私は興味深い書籍をここに引用することにする。この書籍は民俗学者である赤坂憲雄が著した『境界の発生』で、主に日本に於ける境界の観念が様々な角度から論じられているのだが、私が抜粋するのはそのなかでも民族学者の岡正雄の歴史的民俗学を論じている節に記されている。

フォークロアは「文明中の残存物」を指導観念として、タイラーやフレイザーらによって発展させられてきたが、生誕のときから、“文化の進化論的説明原理”と必然的ともいえる因縁関係を持っていた。それは、あらゆる民族または種族の心的ないし物的環境の共通性を前提とし、その論証のためには比較帰納法が用いられる。いわば、あらゆる場所・時代・民族から時空的な特性を無視して掻き集められた資料は普遍化され、進化説の一般的な段階に挿入される。そうして、フォークロアすなわち残存的習俗は、それぞれの歴史的な特性を無化されて、帰納的比較の具に供されるのである。(注釈3)
フレイザー流の比較帰納法は、時空の関係を無視して蒐集したフォークロア資料を普遍化し、あるいはそこにある共通性のみを手掛かりに事象の法則を導き出そうとする。岡はそれにたいして、事象のすべてをその特殊性や歴史性を損なうことなく、それぞれの文化圏性を保ったままに比較することの必要性を説く。(注釈4)

岡はフレイザー流の、文化の多様性を無視してすべての事象には一つの祖型が存在するという前提を持つ民俗学――彼はこれを心理的民俗学と称する――を批判し、「事象のすべてをその特殊性や歴史性を損なうことなく、それぞれの文化圏性を保ったままに比較する」歴史的民俗学を提唱する。

フォークロアの研究に於て、帰納的比較法に依つて普遍化を行ひ、その結果を心理学的解釈に従つて法則化せんとするものを、私は仮りに心理的民俗学とし、範型を時間的に辿り、空間的には民俗的資料の文化圏性を把持しつゝ、その側光に依つて事象の意味を了解せんとするものを歴史的民俗学(、、、、、、)と呼び度い。(注釈5)

この歴史的民俗学は民俗学に関する用語には間違いないのだが、私の言う歴史的演繹法を考える際には、これを歴史に当てはめて考えていただきたい。歴史的歴史というとおかしな響きになるが、私が注目したいのはその歴史的民俗学に於ける「空間的には民俗的資料の文化圏性を把持しつゝ、その側光に依つて事象の意味を了解せんとする」方法なのである。これこそが創作のために一定の現実性を確保する歴史的演繹法の機能なのである。

創作を構築する際、根本的にその物語を一貫する歴史の存在を否定することが出来なくなるだろう。だから作者はそれを組み立てて行くわけであるが、彼は歴史的民俗学の過程とは真逆の過程を踏んで歴史を構築する方法を採用しなければならないのだ。なぜなら彼は彼が生み出す世界の原初の姿をイメージしなければならないし、それを知らないでいるということは出来ないからだ。たとえそれが完全なる想像の作品ではなく、現実世界の舞台を利用していたとしても、その現実世界と物語との分岐点を生み出し創作化するのも作者の頭のなかの仕事なのであって、その最初の過程を知らないでいることなどできないだろう。そしてそこから事象を積み重ね、物語を積み上げて行く。これは民俗学者が各時代に残った残存的習俗から様々な文化圏間で比較考察し、その歴史的相対性を研究していくのと時空的に丁度正反対の作業であると言えるだろう。私はこれを歴史的演繹法と呼び、これこそが創作に於ける一定の現実性を完成させる技術なのであり、また、作品に最低限必要、且つそれ以上に必要のない文芸創作のリアリティ表現の基礎なのであると結論付けたいと思う。

しかしながら、何故歴史的民俗学の機能は歴史的演繹法の機能となりえ、フレイザー流の心理的民俗学はそうはならないのか。確かに、創作者の頭のなかには無数の情報が錯綜し、その無秩序の中から選抜された情報同士がくっつきあって構成する点からしても、心理的民俗学のように、「あらゆる場所・時代・民族から時空的な特性を無視して掻き集められた資料」を「普遍化」し、帰納的に物語の原初の状態を生み出す方が、より限りなく類似した機能を共有しているようにも思われるだろう。けれども最終的にはそれが一本の時系列の上に積み上げられ構築されていくのは避けられないことなのであり、そうなると結局その物語が存在する作られた世界の文化圏性を維持しながらそれを土台として歴史が築かれねばならぬのである。それ故に、歴史的演繹法によって物語を生み出すより前の段階では、この心理的民俗学的な帰納法が大いに利用されることになるであろう。

終わりに

さて、私が歴史的演繹法をここで論じたのは、そもそも創作に於ける現実性を批判するためであった。その創作というのも、ここでは専ら文学の創作を指しているのであり、他の芸術領域に関してもこの反リアリティ論が通用するわけではないことは私もよく理解しているつもりである。しかしながら、それは文芸創作にも然りであろう。文学であろうとも、全く現実性を重視されない作品もあれば、絶対的に必須になる状況もあるはずだからである。したがって私の持論は完全なる主観的観測なのであり、根も葉もないことであるのだと、私は謙虚にもここに記しておこうと思う。

とは言っても、世の中の持論に客観的なものなどあるのかどうかは知らないが。ただ、何人も本当に自分自身が自分自身でいられるわけではないのであり、人は常に何かしらの影響の上に、土台の上に生きているのであるということは断言できるかもしれない。そうすると、世界とは物語であり、人間はその登場人物を毎日毎日、自分が演者であるということにも気付かずに演じている無知な種族なのかもしれない。

注釈

  1. 松本仁助・岡道男訳、アリストテレス『詩学』(1997) p.43、岩波文庫
  2. 芸術の定義は人によって千変万化であろうし、ここではあえて深くその意義について考えてはいないが、私見を簡単に述べておくことにする。けだし、芸術とは苦悩であり生きることである。生きることとは楽しむことではなく苦しむことである。故に芸術とは常に死を孕んだ生の描写にあると私は信じている。それは芸術的云々の世界ではなく、精神の混沌に形を与える人間の努力の結晶なのではなかろうか。
  3. 赤坂憲雄『境界の発生』(1989) p.267、砂子屋書房
  4. 同上 p.268
  5. 同上 p.269